top of page
町の名所 〜谷中初音町名所案内〜
岡倉天心記念公園
この公園は、岡倉天心が東京美術学校校長時代の明治30(1897)年から明治39(1906)年に茨城県北茨城市の五浦に移るまで住んだ旧居跡で、天心がここで日本美術院を創設しました。
正面に岡倉天心が五浦に建設した六角堂を模した天心記念六角堂があります。中には天心を心から尊敬した文化勲章受章者の平櫛田中作の「岡倉天心先生座像」が安置されています。座像は、天心が東京美術学校の制服として定めた、奈良時代の役人のような服装をして僕頭(ぼくとう)を被った、変わった格好をしています。この格好でここから歩いても20分ほどで行ける上野の東京美術学校まで愛馬「若草」号に乗って通っていました。明治31(1898)年3月に美術学校の紛争で校長職を辞職しますと、天心宅であったこの地に日本美術院を創設し、多くの画家などを育成しました。門下生からは、日本画の横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山、鋳金家の岡崎雪声、彫刻家の平櫛田中など大勢の芸術の大家が輩出しました。
なお、この六角堂は、10月に行われる「谷中まつり」の期間中10時から16時の間だけ扉を開いて、写真のようにじかに見ることができます。
<クイズ>
この公園には、六角堂にちなんで多くの六角形が使われています。あなたは、何種類の六角形を探せますか?
正面に岡倉天心が五浦に建設した六角堂を模した天心記念六角堂があります。中には天心を心から尊敬した文化勲章受章者の平櫛田中作の「岡倉天心先生座像」が安置されています。座像は、天心が東京美術学校の制服として定めた、奈良時代の役人のような服装をして僕頭(ぼくとう)を被った、変わった格好をしています。この格好でここから歩いても20分ほどで行ける上野の東京美術学校まで愛馬「若草」号に乗って通っていました。明治31(1898)年3月に美術学校の紛争で校長職を辞職しますと、天心宅であったこの地に日本美術院を創設し、多くの画家などを育成しました。門下生からは、日本画の横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山、鋳金家の岡崎雪声、彫刻家の平櫛田中など大勢の芸術の大家が輩出しました。
なお、この六角堂は、10月に行われる「谷中まつり」の期間中10時から16時の間だけ扉を開いて、写真のようにじかに見ることができます。
<クイズ>
この公園には、六角堂にちなんで多くの六角形が使われています。あなたは、何種類の六角形を探せますか?
日本美術院歌の石碑
この地で日本美術院を設立したころ、岡倉天心がその軒昂な心意気を謡い、横山大観が書いたもので、うぐいすと紅梅花は絵文字で描かれています。
<日本美術院歌>
谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花
堂々男子は死んでもよい
奇骨峡骨開落栄枯は何のその
堂々男子は死んでもよい
<日本美術院歌>
谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花
堂々男子は死んでもよい
奇骨峡骨開落栄枯は何のその
堂々男子は死んでもよい
六阿弥陀みち
江戸時代の中頃には、七福神めぐり、六地蔵まいりなど多くの民間信仰が大変はやりました。その中でも六阿弥陀参りは人気のある寺院めぐりだったそうです。行基菩薩が紀州熊野の大杉で刻んだといわれる 六体の阿弥陀像と木余り、木残りと言われる阿弥陀像の計八体の阿弥陀像を祀るお寺を、彼岸のころ多くの人がぞろぞろと列をなしてお参りして回っていました。全部を回るとおよそ五里半(約22キロ)あり、高齢者にはキツイが、江戸の人々には一日で歩けない距離ではなかったそうです。
この道は、四番 田端(北区)の与楽寺から五番 下谷広小路(台東区)の常楽寺へ行く道で、明治の中頃まで両側は田圃や畑でした。
この道は、四番 田端(北区)の与楽寺から五番 下谷広小路(台東区)の常楽寺へ行く道で、明治の中頃まで両側は田圃や畑でした。
妙祐山宗林寺(日蓮宗)
徳川家康の茶頭であった斎藤宗林(元和3(1817)年没)が開基となり、駿府(静岡市寺町)に建立した寺院です。山号の妙祐は夫人の院号であり、寺号の宗林は斎藤氏の茶道名です。
徳川家康が江戸へ入府の際に台命(将軍の命令)により、慶長年間に神田昌平橋外に移転しました。その後間もなく上野東寺町に移転を命ぜられ、さらに元禄14(1701)年に谷中新堀村蛍沢と言ったこの地に3,750坪の寺領を拝領して移転しました。
この辺りは、江戸時代には田畑や湿地が多く、用水も流れていて蛍が多かったことから蛍沢と呼ばれていました。また、戦前には境内に萩が多く、俗に萩寺と称されています。
徳川家康が江戸へ入府の際に台命(将軍の命令)により、慶長年間に神田昌平橋外に移転しました。その後間もなく上野東寺町に移転を命ぜられ、さらに元禄14(1701)年に谷中新堀村蛍沢と言ったこの地に3,750坪の寺領を拝領して移転しました。
この辺りは、江戸時代には田畑や湿地が多く、用水も流れていて蛍が多かったことから蛍沢と呼ばれていました。また、戦前には境内に萩が多く、俗に萩寺と称されています。
三四真(みしま)地蔵
太平洋戦争の末期、昭和20年3月4日午前8時頃、小雪降る中に谷中地区はB29の爆撃を受け、死傷者約500人、全半壊家屋約200戸の被害を蒙りました。戦後の昭和23年に当時の谷中三埼町、谷中初音町四丁目、谷中真島町の有志により、三ヶ町の戦災死者70余名の霊を永久に供養するため、ここに地蔵尊を建立しました。
三四真地蔵の名称は、谷中三埼町の三、谷中初音町四丁目の四、谷中真島町の真から付けられました。
三四真地蔵の名称は、谷中三埼町の三、谷中初音町四丁目の四、谷中真島町の真から付けられました。
蛍坂
谷中の台地にある安立寺・加納院・本立寺から初音の森へと下る細い坂道です。江戸時代にはこの坂の下は湿地で、蛍が多くいたので蛍沢と呼ばれて江戸の名所の一つでした。粘土質の急な坂で、舗装もされていなかった昔はころぶと三年で良くないことがあるといわれ「三年坂」の別名があります。
この坂の中ほどから見る夕焼けはとてもきれいです。
50年ほど前、曲がり角にあった家には、落語家の四代目「柳亭痴楽」が住んでいました。
この坂の中ほどから見る夕焼けはとてもきれいです。
50年ほど前、曲がり角にあった家には、落語家の四代目「柳亭痴楽」が住んでいました。
外部リンク
bottom of page